<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<feed xmlns="http://www.w3.org/2005/Atom">
   <title>小倉ブログ</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://candy.justek.org/" />
   <link rel="self" type="application/atom+xml" href="http://candy.justek.org/atom.xml" />
   <id>tag:,2007:/19</id>
   <updated>2007-09-26T10:40:19Z</updated>
   
   <generator uri="http://www.sixapart.com/movabletype/">Movable Type 3.34</generator>

<entry>
   <title>ジョン・カボットについて、知っておこう！</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://candy.justek.org/2007/09/post_1.html" />
   <id>tag:candy.justek.org,2007://19.39</id>
   
   <published>2007-09-26T10:39:50Z</published>
   <updated>2007-09-26T10:40:19Z</updated>
   
   <summary>ジョン・カボット（John Cabot（英）/ Giovanni Caboto（...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://candy.justek.org/">
      <![CDATA[ジョン・カボット（John Cabot（英）/ Giovanni Caboto（伊）、1450年頃 - 1498年）は中世の航海者。北アメリカ大陸の発見者として知られる。イタリア語読みではジョヴァンニ・カボート、英語読みではジョン・カボットとなる。

ジェノヴァ生まれで前半生はヴェネツィアで活動し、1484年にイギリスへ移住した。1496年に国王ヘンリー7世の特許状を受けて、ブリストルを出航したものの失敗。翌年、息子のセバスチャン・カボットを伴って再び船団を率い、カナダ東南岸のケープ・ブレトン島に到達し、ニューファンドランド島やラブラドル半島を発見するなどの成果を挙げて帰国した。1498年にも探検隊を組織し、グリーンランド東西沿岸の調査航海を行ったものの船員の叛乱によって南下を余儀なくされ、その途上で没した。



<a href="http://www.delitani.com/">デリヘル 鶯谷</a>　
<a href="http://www.delibuya.com/">デリヘル 渋谷</a>　
<a href="http://www.delijuku.com/">デリヘル 新宿 </a>　
<a href="http://www.delibukuro.com/">デリヘル 池袋</a>　
<a href="http://www.delitokyo.com/">デリヘル 東京</a>　]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>滋賀県</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://candy.justek.org/2007/09/post.html" />
   <id>tag:candy.justek.org,2007://19.19</id>
   
   <published>2007-09-07T00:00:04Z</published>
   <updated>2007-09-07T00:03:55Z</updated>
   
   <summary>私は奈良県にすんでいるので滋賀にはよくいきますがとても良いところです。今日はそん...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://candy.justek.org/">
      私は奈良県にすんでいるので滋賀にはよくいきますがとても良いところです。今日はそんな滋賀県について解説します。

滋賀県（しがけん）は、琵琶湖を取り囲んでいる、日本の県である。県庁所在地は大津市。

海洋国家である日本において、内陸側に位置する数少ない県である。面積は全国で10番目に狭く、内陸県では埼玉県に次いで狭い。領域は令制国の近江国と一致する。

面積の大半を琵琶湖と山地が占める。他の都道府県の住民からは、滋賀県の半分程度が琵琶湖であると思われがちだが、実際は琵琶湖は県総面積の1／6程度である。

歴史的にも文化的にも、京都府山城地方（京都など）・福井県若狭地方（敦賀など）・岐阜県西濃地方（岐阜など）・愛知県尾張地方（名古屋など）との繋がりが深い。又、三重県北部（津市以北）や奈良盆地との繋がりも見られる。

滋賀県は、沖縄県と並んで高い人口増加率を誇る県であり、全国でも数少ない推計人口が現在より増加する県と見なされている。その要因として、宅地開発などによりここ数年他府県からの者が転出者より増えている事や、特に南西部が京都や大阪などのベッドタウンとして人口が増加している事が挙げられる。

尚、県名の「滋賀」は、大津が属していた滋賀郡から取った物である。

滋賀県は、古くから開発されて日本の国政に関わって来た地域であり、「近畿」の字の如く、「都の近く」として発展しました。下記滋賀の歴史について解説します。

■歴史
古代から平安時代まで
国造が分立した時代には、滋賀県はヤマト王権の領土に入っていた。平城京が建設される前には、短期間ではあるが近江京や紫香楽宮が建設されるなど、日本の首都が置かれて来た。

畿内・東国・日本海側の接点という位置から、大海人皇子と大友皇子の皇位継承を巡る壬申の乱や藤原仲麻呂の乱といった戦乱の舞台に度々なることもあった。

平安時代中期より佐々木氏が近江に起こった。この佐々木氏は、源頼朝が関東で勃興するとこれに積極的に加わり、近江一国の守護職を得た。以降、六角氏や京極氏と分かれながら、佐々木一族は、戦国時代に至るまで近江国を支配した。南北朝期には、ばさら大名で有名な佐々木導譽（高氏）が出て京極家の勢威を伸ばした。

本願寺蓮如の大布教が始まると、大津は一向宗色が強くなった。このため、これを喜ばない比叡山が度々攻撃を仕掛けた。比叡山東麓の坂本は、一向宗の堅田と経済的にも対立していた事から、両者の抗争は頻繁であった。この後に蓮如は、大津に一向宗拠点を構えたため、大津が栄えることとなった。


■戦国時代
戦国時代に入ると、北近江に浅井氏が台頭する。形の上で京極氏を奉じた浅井氏は南近江を領する六角氏と抗争する。織田信長と結んだ浅井長政に至って六角氏を駆逐するが、後に将軍の信長包囲網に加わって信長に抵抗、1573年に滅亡する。

近江国を支配圏に入れた信長は、根拠地として近江盆地に安土城を建設する。信長の死後は、畿内を地盤とする羽柴秀吉と、北近江と若狭国を地盤とする柴田勝家の係争の舞台となり、近江北端部で行われた賤ヶ岳の戦いにおける秀吉の勝利で決着が着けられた。秀吉は初めての領地が長浜であった関係もあり、多数の近江国民を主に事務方として登用した。石田三成もその一人である。

しかしその事によって生じた近江閥と秀吉出身地の尾張閥の対立が、旧不破関（近江国と美濃国の境）で行われた関ヶ原の戦いを促したとも言われる。


■江戸時代
徳川家康は、徳川氏における精鋭軍を率いる井伊氏を、関ヶ原に近い彦根に入封させて西国の抑えとし、北近江は彦根藩の領土となった。又、江戸時代にあった藩として、膳所藩（ぜぜ）、水口藩、大溝藩、西大路藩、宮川藩、山上藩、三上藩、交代寄合の最上家の大森陣屋、交代寄合の朽木家の朽木陣屋があった。江戸時代初期には将軍上洛用御殿が近江国内に水口城のほかに、永原御殿、伊庭御殿、柏原御殿があったが、３代将軍家光以降、上洛も途切れ御殿も次第に老朽化して、廃れていった。

又、鎌倉時代から続く商工業が江戸時代には飛躍的に発達し、犬上・愛知・神崎・蒲生・高島の各郡、特に近江八幡などからは近江商人を多く輩出した。


■明治維新以後
廃藩置県後、1876年8月21日には嶺南（旧若狭国）を編入した為に、若狭湾に面していた時期もあった。しかし、4年半後の1881年2月7日に、福井県が発足した際に、嶺南が滋賀県から分離された事で、内陸県である現在の領域となった。

話は変わりますが、日本一大きい琵琶湖はやはりいいですね。海みたいです（笑）


      
   </content>
</entry>

</feed>
